全ては一つの小さなエピソードから始まった… それは去年12月8日のこと。いつも集まる7人の仲間と、ホイチョイプロダクションズの馬場康夫さんの自宅で酒を酌み交わしていた。いつも集まる7人、僕を含めて8人の仲間は馬場さんを介して知り合った。職業は全員バラバラ。雑誌編集者、コピーライター、ディレクター、マーケッター、モデル、放送作家など。ただ、世代だけは同じ20代後半だった。 夜も深まってきた頃、その日がジョンレノンの命日であることに僕たちは気づいた。馬場さんが学生時代に買ったという「アビーロード」のLPにわざわざ針を落とし、馬場さんのビートルズ談義が始まった。有名なジャケット写真の噂に始まり、馬場さんはいつもの早口でビートルズ観を喋りまくった。 馬場さんの話を聞いているうちに、僕はある一人の古い友達のことを思い出した。 「そう言えば、高校時代の同級生に、ビートルズって言葉を記号にして歌を作ったヤツがいるんですけど、その歌がめちゃくちゃいいんですよ」すると、すぐに馬場さんが切り返してきた。 「記号ってどういうこと?」 正直なところ、僕たちはそれほどビートルズを知らない。ビートルズが日本に来日した頃に僕たちは生まれ、ジョンレノンが撃たれた時、まだ高校生か、中学生。ジョンレノンの死が、僕たちのビートルズの始まりだった。 「そいつも、ジョンレノンが死んだ時、ビートルズのLPなんて一枚も持ってなかったんです。ジョンレノンが死んだというニュースより、その死をたくさんの大人たちが悲しんでいる、という事実にショックを受けて、そいつは曲を作ったんです。」 心の支えを失った時、人はどこに向かえばいいのか…それがその曲のテーマであり、そのきっかけが、たまたまビートルズだった。 馬場さんはすこし憤慨した様子だったが 「どんな歌?歌ってみて?」と、一番若いモデルの女の子が言ってきた。が…そう言われて僕は困った。何しろ、聴いたのは11年も昔。しかも一度きり。 大学受験のため、東京に出てきた時だった。そいつと僕は、同じ日大芸術学部を受験するために、新宿の同じホテルに泊まっていた。試験の前日、大雪が降った。窓の外にある都会の風景が、真っ白に雪化粧されていく。さっきまであれだけうるさかった街が、まるで眠ってしまったかのようにおとなしくなった。確かに九州出身の僕にとって東京の雪化粧は感動的だったが、その時はそれどころではなかった。試験は明日に迫っている。そんな風景にみとれている暇はない。 それから数時間後、窓がすっかり曇り、外が何も見えなくなった頃、鉛筆のコツコツという音だけが響く僕の部屋に、ノックの音がした。ドアを開けると、そいつが立っていた。 「歌を聴いて欲しいんだけど…」 2ケ月前に書いてずっと大切にしていたという詞に、この雪を見て、たった今曲をつけたというのである。驚いた、というか、あきれた。大学受験の前夜にもかかわらず、雪を見た感動のあまり、作曲をしていた、というのだから。 そいつは、僕の部屋に入ってくると、曇った窓をセーターの袖で拭いた。その向こうに、しんしんと降り続ける雪が見える。そして、そいつは…鳥肌がたつほど、感動した。時々かすれる声が、東京の雪の夜にとにかく似合った。 「やっぱり、聴かしてよ、その歌」 今度は馬場さんが言ってきた。しかし、僕はその期待に応えられなかった。その曲に感動したが、肝心のメロディーをほとんど覚えていないのである。むしろ、僕の方がもう一度聴きたいくらいだった。 「今から、その友達、呼ぼうよ」 誰かが言った。けれどもそれはむりな注文だった。いや、正確に言えば、そいつを呼んできたとしても、その歌を聴くことはできなかった。 「それ、どういうこと?」 今度は、さっきまでキッチンにいた馬場夫人が尋ねてきた。 そいつは、その曲を、雪の降る夜にしか歌わない、と決めたのである。 あの夜に。雪の鍵がないと聴けないオルゴール…みたいなものだった。 「そいつの名前なんていうの?」 「平田アキラ」 みんなは、平田のことを笑った。そして、平田が11年前に口走ったことを今でも信じ続けている僕のことも。ドラマじゃあるまいし、なんていない、と言うのである。その場で僕は、数年ぶりに、平田に電話をかけた。 「…というわけなんだけど、あのビートルズの歌、今からこっちに来て、歌ってくれない?」 僕が誘うと、平田は笑いながら、 「だからあん時、言わなかったっけ?アレ、雪の日しか、歌わないって」 と、サラリと言った。みんなは驚き、そして、僕は嬉しかった。そんなヤツである、平田アキラは。 奄美大島出身の彼は、とにかく、いつもまっすぐに生きてきた。いい意味で、ヤツの人生は不器用すぎる。自分の思ったことを、思った時にする。一度決めたら、そこに向かって走り続ける。 あの夜、歌を聴かせてもらった僕は、日大芸術学部に受かり、そして、歌を作って聴かせてくれた平田は、落ちた。 それでも、平田は自分の落ちたことも忘れて、僕の合格を喜んでくれた。結局、平田は日大の工学部に入学。 大学を卒業してからも、アルバイトをしながら自分の歌を作ってはそれを歌い続けた。プロデビューしたい、という意志は少しはあったのかもしれないが、僕から見れば『歌いたいから歌う』…そんな風に見えた。決して、一発当ててビッグになってやる!…という野望に満ちたハングリーな男ではない。本当に純粋な気持で『いい歌を作りたい』と思い続けてきたんだと思う。 「ますます、その歌を聴きたくなってきたね!」 モデルの女の子が言った。僕はみんなに、平田の歌を聴かせることを約束して、その夜別れた。 それから、およそ1ケ月後。 1993年1月9日、東京に雪が降った。僕はすぐに、あの夜に集まった仲間と馬場さんに電話を入れた。夜8時、新宿西口中央公園。結局、あの夜にいた10人のうち、集まることができたのは7人。たったの7人の観客は、雪の中、傘をさして平田を待った。ゆっくりと舞い降りてくる粉雪が、都庁の照明に照らされてキラキラ光って見えた。 そして、少し遅刻して、アコースティックギターをかかえた平田がやってきた。 「途中で、道に迷っちゃって…」 と苦笑いする平田のギターケースには、少し雪が積もっていた。寒さに震えている僕たちを見ると、平田はすぐにギターケースを開き、チューニングもせずに、歌い始めた。白い雪をはきながら歌う平田のハードヴォイスが、真っ暗闇ではない東京の空に、舞い降りてくる雪をかき分けながら突き進んでいく。みんなの震えがピタリと止まるのがわかった。 歌が終わり、僕たちはドラマの1シーンのようなこの光景に酔いしれていた。何も言わない。拍手もしない。雪が頭に落ちてくる微かな感触がよかった。と、その時… 「風邪ひくから、デニーズでも行って、コーヒー飲みませんか?」 僕たちのドラマの主役は、自ら、そのシーンをぶち壊してくれた。本人は、何も分かっていない。『らしい』と思った。 デニーズでコーヒーを飲みながら話し込んでいるうちに、 「今日来れなかった3人、残念だったね!」 という話になった。すると、誰かが 「CD作らない?プライベートCD」 平田は最初渋っていたが、僕たち10人分だけということで納得してくれた。レコーディングは仲間のディレクターがこっそり準備したあるラジオ局のスタジオで行われた。平田があらかじめ作ってきたカラオケを使って一発録りするという素人的なレコーディングだった。 それから1ケ月後、たった10枚の『今夜、ビートルズが街をうめつくして』が完成した。もちろん、それは馬場夫妻も含める10人の手に渡り、この小さなドラマは終わった。…かのように見えた。 しかし、実はこれが終わりではなく、始まりだったことに気がつくまでそう時間はかからなかった。それぞれが、それぞれの友達にそのCDを聴かせているうちに 「是非、わたしも一枚欲しい…」 という声があがりはじめたのである。急遽僕たちは平田を呼び、あと20枚だけ、作らせて欲しいとお願いした。それが、30枚、40枚…と増え、とうとう100枚も作ってしまう結果となった。 その一枚を偶然手にしたのが、音楽事務所をもつ三上さんという人である。三上さんは、平田に会ってみたいと、友人の友人を介して訪ねてきた。そして、実にあっさり、平田は三上さんに自分の大切にしていた歌を預けた。僕は少し三上さんに嫉妬を覚えたが、 「三上さんなんて、モロにビートルズ世代でさ…その世代の人が、涙流してくれたんだよ」 と嬉しそうに言う平田の顔を見ると、その気持も吹き飛んだ。 まっすぐに、そして、自分に素直に音楽をやってきた平田が、これからどうなるかは分からない。飾らない美しさを、どれだけの人が、美しいと認めてくれるのか、僕はそっと見守ることしかできない。 【解説】 この短編小説は1993年12月8日に、小山薫堂の同級生である平田輝のデビュー曲「今夜、ビートルズが街をうめつくして」の発売にあわせて書かれたもので、楽曲はiTuneStoreなどで購入でき、ライブの模様がYouTubeでご覧いただけます。 最近では、小山薫堂の小説「フィルム」の中の一遍「セレンディップの奇跡」のために、平田が書いた楽曲もあり、期間限定でその楽曲をダウンロードできます。ぜひとも小説とあわせてお楽しみください。 ♪セレンディップの奇跡/AKIRA HIRATA(mp3/3.8MB) 【「今夜、ビートルズが街をうめつくして」/小山 薫堂 】 TOPページへ戻る |